独書は毒っしょ

読書の記録

独書日記34〜『現象学入門』竹田青嗣〜

こんにちは、うどくです。

皆さんはオートロックで失敗した経験はありますか?

私は部活の大会でホテルに泊まったときに、鍵を持たないで部屋を出るということをよくしていました。

それならフロントの人に迷惑はかかるものの何とかなりますが、先日家の鍵を持たずに自販機に飲み物を買いに出たということがありました。

夜も深い時間で、人も出入りもなくオートロックに締め出されてしまったわけです。

結局業者を呼んでお金を払って解決したのですが、痛い出費でした。

この本は、業者を待っている時に凍えながら読んだ本になっています。

 

 

 

今回読んだ本は竹田青嗣現象学入門』です。

現象学といえばフッサールが有名ですが、高校倫理では判断停止(エポケー)という用語しか扱われずさっぱりだったという印象があります。

この本を手に取ったのは〇〇現象学という本を読むために、まずは現象学を知っておこうということで読むことになりました。

 

 

 

以下は本の紹介と感想のパートになります。

 

 

 

 

この本は、現象学がどのような問題を扱いどんな意義を持つ学問であるかをフッサールの思想に戻って解説しています。

 

現象学とは?

フッサールが創始した哲学分野の1つ。デカルト以降、問題視されてきた<主観/客観>の問題に対する一つの解法を提示した思想になっている。

<主観/客観>の問題とは私たちが認識しているもの(主観)と認識されているもの(客観)の一致を如何にして示すかという問題である。

これに対してフッサールは<主観>の側から<客観>を説明しようと試み、「原的な直観」が人間にとって自由にならない存在として現れることで、<主観>の外の存在を確信することができると説明した。

この「原的な直観」とは、日常生活において生じた疑念を検証する際に用いるものである。

ex.)目の前のものをりんごかどうか気になった時、手に取って質感を確かめたり、齧って味を確かめたりする。私たちはその時に心に生じる感覚(直感)をもって判断する。

 

大体はこんな感じだったと思います。

(本文ではもっと専門用語を使って厳密に議論されていましたが、)

現在の現象学に対する批判を取り上げそれに反論する形が取られていましたが、そのような批判に至る哲学史的な経緯も取り上げられていて勉強になりました。

 

自然科学の隆興と人文科学の停滞の影に<主観/客観>の問題を見出す議論は興味深かったです。

自然科学が扱う世界は理理想化された「理念世界」であり、私たちが日常を送っている「生活世界」とは異なるものとフッサールは言います。

科学はもともと「理念世界」を「生活世界」をより良くするための手段でした。

しかしのちに科学は目覚ましい成果を上げ、自身の体系を無限に押し広げることを自己目的とするようになります。。

つまり生活世界が目的のために様々な検証がなされる手段に成り下がったのだと主張します。

その帰結こそが、人文科学にがイデオロギーの対立、相対主義懐疑主義の前に挫折してしまったことだと彼は考えました。

 

 

この議論が科学の側からどのようにみなされるかはわかりませんが、一つの歴史の見方として面白いと思いました。

現代で言うと、ビジネスが何事にも入り込むようになってきましたが、ここら辺に関連した似たような議論が展開できるのではと思いました。

(思っただけで上手く纏まりませんでしたが、、)

ただ人文学において、その研究において物事を単に対象とみなしてしまっては問題を捉えきれなくなってしまうのではと言う視点は忘れないようにしたいです。

特に差別の問題に関しては、差別を被っている人を単なる対象とみなして行う研究だけでは何か大切な何かを見落としてしまう気がします。

その人が何を感じ、何を考えたかと言う、相手の立場に立った研究も大事なんじゃないかと思いました。

 

 

 

今回の感想はこんな感じです。

メモを取りながら本をとるのが、しっくりこなかったこともありどうしようかなと悩んでいましたが、自分にとってフィードバックになっていい気がします。

ただ、厳密な議論についてブログ上で振り返るのもなあと思う部分もあります。

他の人はどうしているのでしょうか。

次回は今回若干触れた〇〇現象学と題された本の感想にしようと思います。

ただテーマはもっと触れやすいものかと思うので、読みにきてもらえたら嬉しいです。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございます😊

次回も楽しみにしていてください!