独書日記30〜『話し手の意味の心理性と公共性』三木那由他〜
お久しぶりです。
9月の真ん中頃にポケモンを買いまして、それ以降全然それ以外のことに手がつかない状態でした。
一ヶ月で300時間くらいしているようで控えなければと思っているのですが、、、
今回読んだ本は三木那由他著『話し手の意味の心理性と公共性』です。
この本は春から少しずつ読み進めてきた本なのですが、ようやく読み終わりました。
テーマはコミュニケーションの哲学と言った本になっています。
著者の三木那由他さんは10月から本学の大学院の講師に着任したようで、どこかで関わる機会があるかもしれないと思うとワクワクするものがあります。
概要
この本のテーマは、人が何らかの行為をもって何かを意味するということがどういうことかになっています。
私が窓の外を指差すことで、雨が降っているということを意味するとき、素朴にはそれは、雨が降っているということを誰かに信じさせようと意図して、私が窓の外を指差すというのと同じことであるように思える。だが待ってほしい。それだけでは私が録音した雨の音を、録音だとばれないように誰かに聞かせ、本当に雨が降っているかのように思い込ませるような場合にも成り立つ。しかし実際には、こうした場合に私が何かを意味しているだとか、私とその誰かのあいだにコミュニケーションが成り立っているだとかとは言えそうにない。何が足りないのだろうか?
おそらく、何かを意味するためには、誰かに何かを信じさせようと意図するだけでなく、その誰かにそうした信念を抱かせようという意図を自分が持っているということもまた、相手に気づかせようと意図していなければならないのだろう。・・・このような道筋で思考を進めるならば、ある行為をすることによって何かを意味するということを、何らかの意図、あるいは意図に関する意図、さらなる意図に関する意図……を持ってその行為をすることと同一視できそうに思える。
このように話し手が何を意味しようとしているのかを分析することは一筋縄でいく問題ではない。
従来この議論においては「話し手の意味」を話し手の意図を基に分析していく意図基盤意味論が有力でしたが、筆者は共同性基盤意味論を提示します。
共同性基盤意味論とは、話し手の意味が成り立つときには、話し手が発話に対応する信念をもっていることが、話し手と聞き手の間の集合的信念になり、その集合的信念は規範的な願意をもつという立場であると考えるものです。
簡単に言い直すと、何かを意味しようとする(コミュニケーションする)とき、彼らは人るの共同体を形成して、その意味の内容に対してあからさまに反する言動を取らないような義務が生まれるというものでしょうか。
ex.)カップルにおいて、一方は土曜にデートしようと言って2人の間で了解されたのちに、土曜に他の予定を入れたり先の約束を勝手に取り消すことができなくなる。
このような共同体的にコミュニケーションを捉える共同性基盤意味論は、状況ごとに異なる複数の顔を持つ個人という人間像を描き出します。
それは様々な人と出会うたびに新たな自分が増えていくダイナミックで流動的な「私」を意味します。
社会というものは、個々別々の個人たちが原子のように漂い、ただ寄り集まっているだけののっぺりしたものではない。各個人はほかの個人とさまざまな仕方で結びつき、新たな結びつきがその個人を更新する。それはまるで、色とりどりの絵の具があちこちに塗られ、また新たに塗られ、重ねられ、そうして描かれる華やかで重層的な風景なのだ。それが、共同性基盤意味論を通して見る、世の中の姿なのである。
感想
難しい部分が多い本ではありましたが、結論がとても好みの一冊でした。
状況ごと複数の顔を持つ人間像は、まさに私が描く人間像なのです。
ところで皆さんは、自分と友人の体が入れ替わってしまったときどちらが自分になると思いますか?
1.体は自分、意識は友人の存在
2.体は友人、意識は自分の存在
3.どっちも自分でない
この問題をツイッターでもしてみたんですが、ほとんどの人が2と回答していました。
(どちらが自分ときいたのに、どっちも違うを選択肢に加えてしまったので3を回答する人も多いのではと思いましたが、)
やはりと言っては何ですが、意識が自分である根拠と考えることが多いということですが、この本の結論を踏まえて考えると面白い考えに至るということに気づいたのです。
皆さんも家での自分、学校での自分、親しい友人といるときの自分、部活での自分などなど共同体に応じたいろいろな自分がいるのではないでしょうか。
家での自分のまま学校に行ったらどこか不都合が起きることがあるかもしれません。
そんなたくさんある自分の中で「本当の自分」を尋ねられたらどれだと答えるでしょうか。
これは難しい問題だと思っていて、どの自分も他の自分に影響されている部分が少なくともあるわけで「本当の自分」を言い切ることはできないものだと思うのです。
これでは、精神的な面でたくさんある自分のもととなってる「本当の自分」を見つけることはできません。
じゃあ、何をもって1人の自分として存在できているのでしょう。
その答えは身体になるのではないかと思うのです。
人格の根拠を意識に求めがちですが、意識の面では差異の大小に関わらず複数の人格を有するわけでそれを統合する超越論的な人格を求めようとした時には身体に行き着くというのは、とても面白い問題ではありませんか?
終わりに
夏休みの間に結構本を買ったので11月までは本を買わないと心に決めていたのですが、このままでは読んでいないから買ってないだけになってしまうと焦っています。
授業も始まり夏休みよりは忙しいですが、ポケモンをやる時間は無理にでもとっているのが現状なので、そこを本に当てていきたいと思っている所存です。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました😊次回も読んでいただけると嬉しいです。