独書は毒っしょ

読書の記録

【すずめの戸締まり】感想—自己愛/自己犠牲—

2022年12月23日、私はすずめの戸締まりを見ました。

とてもとてもいい映画でした。

今回は私がすずめの戸締まりを見て、感じたこと・考えたことを話していきたいと思います。

*ネタバレを含む内容となっているのでご了承ください

小説版も読んでおり、この文章の中で引用する際には小説版を参照しています

 



 

サムネ用



 

 

 

 

 

目次

 

 

 

 

 

 

それぞれの戸締まり

 

映画すずめの戸締まりは"回復"の物語である。

 

回復

1. 悪い状態になったものが、もとの状態に戻ること。また、もとの状態に戻すこと

2.一度失ったものを取り返すこと。

デジタル大辞泉

 

登場人物それぞれが何かを失っていて、それに伴う問題を抱えている。

この作品はそれを取り返す、もとに戻す物語なのだ。

 

 

ここでキーワードになるのがタイトルにもある"戸締まり"という言葉である。

戸締まりは扉や窓を閉め錠をするという行為そのものではあるが、では私たちがいつ戸締まりをするかというと出かける時であったり、夜に寝る前であったりと他の行為の準備として行われるものである。

つまり戸締まりをすることは逆説的に未来を見据えた行為なのである。

この未来に目を向けることが登場人物らの回復に必要なものであり、この意味において"戸締まり"とは一つのメタファーになっている。

 

 

そしてそれは主人公に目を向けたらすずめにとっての”戸締まり”なのであって、また登場人物それぞれが自分の"戸締まり"をしている。

ここからは登場人物がどのような戸締まりをしたのかを見ていきたいと思う。

 

 

 

 

 

鈴芽の場合

鈴芽における戸締まりは自分の価値の確認であった。

 

鈴芽は4歳の頃に天災という人の力が意味をなさない理不尽によって母を失っている。

その果てしなく辛い体験は、鈴芽に自身の生をいとも簡単に消えてしまうものだと思わせたのである。

故に鈴芽はそのような不安定なものの上に成り立っている今の自分に価値がないと思い込む。

初めて蚯蚓と対峙することになったシーンで鈴芽の無茶な行動に、草太が「死ぬのが怖くないのか!?」と問うた時も、鈴芽は「怖くない!」と何の迷いもなく言い切るのである。

また自分を大切に思って気遣ってくれる環叔母さんに対しても鈴芽は冷たくあたってしまうのだ。

このように鈴芽は自分の価値を信じられないがために、自分を粗末に扱うような振る舞いをするのであった。

 

 

そんな鈴芽は草太と出会い、共に旅の中で自分の価値を再発見していく。

鈴芽の旅を簡単に振り返ろう。

愛媛では仲良くなった千果の家族にお世話になり、神戸では子持ちのシンママの家にお世話になり、東京では草太の家で1人になり、地元に帰る道では環叔母さんや芹沢はいるものの、最終的には過去の自分と1人で対峙する。

これは彼女自身の人生の追体験でなかろうか。

両親と子どもの家庭→母と子ども家庭→一人暮らしの家と鈴芽が旅の中でお世話になった宿は、最初から欠けている部分も含めて彼女の人生における家族の形を追体験するものとなっている。

(小説版では母子家庭であったという内容の記述あり)

このことは鈴芽にとっては無自覚だったかもしれないが、戸締まりという観点からは必要な体験だったと思われる。

 

 

そして 旅の中で鈴芽にとって何より大切だったのが草太の存在である。

草太のことを夢で見たその日に登校中で出会い、所謂一目惚れのような形で鈴芽は颯太と関わり始めていく。

草太は日本各地に現れる後ろ戸を閉めることを生業とする「閉じ師」であった。

そして鈴芽は草太と関わる中で閉じ師の仕事の一端を担うこととなる。

この閉じ師として仕事を通して鈴芽は自分が人のために役に立つことができると実感できるようになる。

愛媛に現れた後ろ戸を草太とともに閉じた後のシーンでこれが顕著に表れていた。

草太 やったな、鈴芽さん。君は地震を防いだんだ。

鈴芽 え・・・

   (地震を防いだ。私が?)

   ほんとうに?

熱い波のような感情がお腹から湧き上がってきて、私の口元を笑顔にしていく。

鈴芽 ・・・嘘みたい!やった、出来たっ、やったあっ!

(中略)

私の服も、きっと顔も、泥だらけだ。それが何かの証しみたいで、こんなことまでも誇らしくて嬉しくて楽しい。

鈴芽 ねえ、私たちって凄くない?

 小説すずめの戸締まり p.90

純粋に発せられた「私たちって凄くない?」や汚れた服に誇らしさや嬉しさ、楽しさを感じていることから、この経験がいかに鈴芽に自信を与えたかを理解するのは難くない。

その後も草太への想いと自分の価値を感じるため、鈴芽は「閉じ師」の仕事を続けながら旅をしていくのである。

 

そして鈴芽が自分の価値に関する考え方に明らかな変化が読み取れる出来事として、草太が要石になってしまうと出来事がある。

ダイジンに草太は要石に変えられてしまい、超常的な存在として現世を守る役割を課せられることになった。

このために鈴芽は草太を失ってしまうことになるのだが、何とか助けるために奔走するのである。

羊郎 —あなたは怖くないのか?

その問いに私は草太さんの声を思い出す。

(中略)

鈴芽 ・・・怖くなんてない

私はおじいさんを睨め付けるように言った。

鈴芽 生きるか死ぬかなんてただの運なんだって、私、小さい頃からずっと思ってきました。でも——

でも。でも今は。

鈴芽 草太さんのいない世界が、怖いです!

両の目の奥が熱かった。涙が勝手に溢れそうだった。でももう泣きたくなんかなくて、私はまぶたをぎゅっと閉じた。

 小説すずめの戸締まり p.243,244

ここでの鈴芽と草太のおじいさんとのやりとりの中で、彼女の人生観が大きく変わっていることが伺えるだろう。

これまでは抗うことのできない運がもたらす思っていた死というものに鈴芽が立ち向かおうとしているのである。

ここには草太への恋情的なものも当然あるだろうが、鈴芽が自分自身を以って抗することができるという自信を持ったという精神的成長も大きなものだと思われる。

 

 

そして物語においても鈴芽にとっても戸締まりそのものであったと言えるのが、常世で過去の自分と邂逅する場面だ。

常世で鈴芽は母親を探して彷徨い込んでしまった当時の幼い自分に出会う。

当時の心情をまざまざと思い出しながら鈴芽も幼い自分と一緒に涙を流す。

ただ鈴芽は「泣き止まなくてはならない」と思うのである。

それは今の鈴芽はそれから12年生きていて1人でもないが、当時の鈴芽は1人であると気づいたからであった。

鈴芽  ・・・何て言えばいいのかな

あのね、すずめ。今はどんなに悲しくてもね——

すずめはこの先ちゃんと大きくなるの

だから心配しないで。未来なんか怖くない!

ねえ、すずめ——。あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを好きになってくれる誰かともたくさん出会う。今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る。朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと決まっていることなの。誰にも邪魔なんて出来ない。この先に何が起きたとしても、誰もすずめの邪魔なんて出来ないの。

あなたは、光の中で大人になっていく。

 

幼鈴芽 お姉ちゃん、だれ?

 

鈴芽  私はね——

    私は、すずめの、明日。

小説すずめの戸締まり p.355,356 (セリフのみ抜粋)

「あなたは、光の中で大人になっていく。」このセリフが全てであるように思われる。

これは未来の鈴芽からの約束であり愛情なのである。

理不尽に曝され絶望の淵に立たされている幼い鈴芽に対して、鈴芽は(幼い鈴芽からしたら)無条件的に未来を肯定することで救済しようとする。

ここには自分への大きな愛があり、それを授かっていたことを鈴芽は思い出す。

これを以って鈴芽の戸締まりは完遂されるのである。

 

 

 

 

草太の場合

草太の戸締まりもまた自分の価値の確認であった。

 

ただ鈴芽のそれとはまた違う意味で草太は自身を等閑にしていたのである。

草太は自分の人生よりも閉じ師としての役割の全うを第一にしていた。

それは彼が後ろ戸を閉じることを、大学4年の集大成である教員採用試験より優先していたことからも明らかである。

また草太の「大事な仕事は、人から見えない方がいいんだ」という台詞からも、閉じ師としての仕事によって草太自身が評価されることを求めていないことがわかる。

 

そんな草太であったが、鈴芽と出会って、と言うよりダイジンに鈴芽が母親から作ってもらった椅子に閉じ込められることで閉じ師というロールとの付き合い方の変更を余儀なくされる。

椅子になった姿では1人で満足に閉じ師の仕事をこなせなくなったため、鈴芽と共に後ろ戸を閉じていくことになる。

(これは草太が頼んだ訳ではなく、寧ろ鈴芽が半ば強引に手伝おうとしたのだが、、)

その旅の中で椅子の姿にはなったものの、草太は鈴芽と多くの時間を共にすることになったのだ。

 

草太の内面が描かれることはあまりないが、彼が要石になりそうになった場面と実際に要石になった場面を比較することでこの物語を通して彼がどのように変わったかを検証することができる。

神戸で後ろ戸を閉じた後

砂浜に着いた素足が、氷に覆われている。カチカチとまるで虫が鳴くような小さな音を立てながら、分厚い氷がみるみるとその範囲を増していく。

(中略)

そうか、と彼は思う。

(中略)

草太  ここが俺の、行き着く先か——

口元に微笑みの形を浮かべ、彼はうなだれる。

(中略)

??   ——

遠くから、誰かの声がする。しかし広がっていく無の甘さに彼はまどろむ。

??   ——

誰だ。彼は不意に苛立つ。なぜこのままいかせてくれない。俺はまどろみを選んだのに。ようやく、今度こそ、全てが消えるのに。

小説すずめの戸締まり p.161,162

この段階ではまだ草太の役割に徹しようという心意気が見て取れる。

直接的には草太自身の行く末を言葉にはしていないものの、自身を殺してでも”閉じ師”を全うしようとしているのである。

しかしそれを「広がっていく無の甘さ」と感じているのは、草太が役割に身を投じることにどこか楽さを感じているようにも思える。

だからこそ、”草太”としての人生を消そうとしたのに引き戻されたことに苛立ちを感じたのではなかろうか。

 

東京の蚯蚓の上で

草太  ・・・すまない、すずめさん

鈴芽  え?

草太  すまない——

ようやく分かった——今まで気づかなかった——気づきたくなかった

鈴芽  え、ちょ、ちょっと

草太  今は——

今は——俺が要石なんだ

鈴芽  え・・・?

(中略) 

草太  ああ——これで終わりか——こんなところで——

鈴芽  草太さん?

草太  でも——俺は——

    俺は——君に会

小説すずめの戸締まり p.206,207

草太が要石になる直前で途切れてしまった言葉と彼の心情については、常世で鈴芽が草太を人間に戻すときに彼の記憶を追体験する中で明らかになる。

ああ——これで——。

これで終わりか——こんなところで——。

でも俺は——君に会えたから——。

君に会えたのに・・・!

消えたくない。

もっと生きたい。

生きていたい。

死ぬのが怖い。

生きたい。

死ぬのが怖い。

生きたい。

生きたい。

生きたい。

もっと——・・・

小説すずめの戸締まり p332,333(草太の台詞のみ抜粋)

この場面では一転して、草太はいざ”閉じ師”以外の自分の要素が捨象される要石になることに改めて直面したときに、それを拒絶するのである。

先の場面との違いといえば鈴芽と対面しているかという部分であろうか。

そう鈴芽こそが草太に旅の中で一人の人として関わり、そのために草太は”草太”としての人生に価値を見出すことができたのだ。

「でも俺は——君に会えたから——。君に会えたのに・・・!」の台詞は、閉じ師として生きてきた草太が、一人間草太として感情を発露した瞬間であるように思われる。

そしてその後堰を切ったように草太として在りたいという思いが溢れている。

この閉じ師ではない”草太”としての生を選ぶということが、草太にとっての戸締まりなのである。

 

 

 

 

 

 

 

環さんの場合

環さんの戸締まりは、鈴芽に対する想いの清算である。

 

環さんは鈴芽にとっての叔母にあたる人物であり、天災で親を亡くした4歳の鈴芽を引き取り女手一つで育てた。

物語においては突如旅に出た鈴芽に大量の或いは長文のLINEを送ったり、九州から東京まで駆けつけたりとちょっと過保護ではと思われるような面もある。

 

そんな環さんであるが、鈴芽に対して何も思うことがなかったという訳でもない。

環   あんた分からんと!?私がどんげ心配してきたか!

 

鈴芽  ——それが私には重いの!

 

環   もう私——

しんどいわ・・・・・・

鈴芽を引き取らんといかんようになって、もう十年もあんたのために尽くして・・・馬鹿みたいやわ、わたし

どうしたって気を遣うとよ、母親亡くした子供なんて

あんたがうちに来た時、私、まだ二十八だった。ぜんぜん若かった。人生で一番自由な時やった。なのに、あんたが来てから私はずっと忙しくなって、余裕がなくなって。家に人も呼べんかったし、こぶ付きじゃ婚活だって上手くいきっこないし。こんげな人生、お姉ちゃんのお金があったってぜんぜん割に合わんのよ

 

鈴芽  そう——

だったの・・・?

でも私だって——

私だって、いたくて一緒にいたんじゃない

九州に連れてってくれって、私が頼んだわけじゃない!環さんが言ったんだよ!うちの子になれって!

 

環   そんなの覚えちょらん!

あんた、もううちから出ていきんさい!

私の人生返しんさい!

 小説すずめの戸締まり p.284,285,286(セリフのみ抜粋)

これはサダイジンが環さんに乗り移った(?)ような形でのカミングアウトではあったが、決して嘘を言ってる訳ではない。

心の奥底に押し込めながらも、環さんがずっと抱えていた思いなのである。

母親を亡くして不憫な鈴芽を見て衝動的に「うちの子になりなさい!」と鈴芽に言ったものの、ずっと我慢を強いられてきたのであった。

 

では鈴芽を引き取ってからの12年間を本当に返してほしいと環さんが思っているかというとそういう訳でもない。

環   あのね、

駐車場で私が言ったことやけど——

胸の中でちょっとは思っちょったことはあるよ・・・。——でもそれだけではないとよ。

ぜんぜん、それだけじゃないとよ

 小説すずめの戸締まり p.305(セリフのみ抜粋)

「ぜんぜん、それだけじゃないとよ」この台詞に環さんの想いの全てが詰まっている。

カミングアウトしてしまったことも確かに思ってしまうようなこともあったけど、それ以上に鈴芽を大切に想っていたんだということを伝えている素晴らしい台詞である。

「うちの子になりなさい!」と言ったときは、鈴芽が幼かったのは当然として環さんもまだ親としては未熟であった。

ただ12年という時を経て2人は大人になり暗黙裡だったことを明るみになっても、環さんの言葉を以ってそれ以上の関係性であったということを2人で再確認することができた。

このことを鈴芽に伝えられたことが、環さんにとっての戸締まりなのである。

 

 

 

 

 

 

ダイジンの場合

ダイジンの戸締まりは自身の役割の遂行である。

 

ダイジンは要石の封印から解かれて白い猫の姿となって鈴芽たちの前に現れる。

そして鈴芽の何気ない「うちの子になる?」の言葉を受けて、その鈴芽の優しさや愛情の虜となって彼女と一緒にいようとするのである。

そしてダイジンが鈴芽といる上で障害となる草太を排除しようとするのだ。

ダイジンは草太を鈴芽の椅子に閉じ込めたかのように思えたが、実は自身が担っていた要石の役割を草太に与えていたことが明らかになり、鈴芽はダイジンを拒絶する。

ダイジン すーずめ 

すずめ、やっとふたりきり

 

鈴芽   ダイジン!

あんたのせいで——

草太さんを返して!

(中略)

ダイジン すきじゃないのぉ?だいじんのこと?

 

鈴芽   はあっ?

好きなわけ——

 

ダイジン すきだよねえ?

 

鈴芽   大っ嫌いーー!

(中略)

ダイジン ——すずめは

だいじんのことすきじゃなかった・・・

小説すずめの戸締まり p.224.225,226(セリフのみ抜粋)

このように鈴芽から強い言葉で拒絶されたダイジンは老猫かのような見た目になって、鈴芽の前から姿を消すのであった。

 

しかし鈴芽の地元では再びダイジンが現れ、探していた後ろ戸へと鈴芽を案内するのである。

そして鈴芽から「ありがとう!」と感謝を伝えられるとまた元の大福のような可愛らしい姿へと戻るのであった。

また常世において鈴芽が草太を救おうとした際にもダイジンはまた手助けをするのであった。

ダイジン いしぬいたら みみず、そとにでちゃうよ

鈴芽   私が要石になるよ!

(中略)

ダイジンは口を大きく開け、椅子の脚をくわえる。・・・手伝ってくれているのだ。

(中略)

ダイジン だいじんはね——すずめの子には なれなかった

・・・一度開かれたダイジンの瞳が、また閉じていく。軽かった仔猫の体が、石のように重く、ますます冷たくなっていく。

鈴芽   ・・・ダイジン?

ダイジン すずめのてで もとにもどして

鈴芽   ——!

小説 すずめの戸締まり p.337,338

鈴芽は自分を犠牲にしてでも草太を救おうとするが、ダイジンは鈴芽のために自らがまた要石となることを選ぶのである。

そして(ダイジンの視点からは)自分に好意を注いでくれた鈴芽と別れ要石になる最後の瞬間を鈴芽に託したのは、ダイジンが最後まで鈴芽に好意を抱いていたことの表れだ。

この自分が元の姿に戻ることを決めること、またそれが鈴芽の手を以って行われるように依頼することが、ダイジンの戸締まりである。

 

 

 

 

 

自己愛と自己犠牲

ここまで4人の戸締まりについて確認してきたが、私はここで自己愛/自己犠牲という観点を導入したい。

 

鈴芽・草太・環さんの戸締まりがもたらしはものは、自己愛である。

鈴芽にとっては不安定な生だとしてもそれを自分自身で肯定することであり、草太にとっては社会的責任のある存在としての自分以外も大切にすることであり、環さんにとっては鈴芽にまつわる様々な感情を認めた上で諾うことである。

彼らがそこに至った経緯も自分への愛の形もそれぞれであるが、共通しているのは”自分を愛する”ことにより戸締まりが成し遂げたということである。

 

 

一方でダイジンの戸締まりがもたらしたものは自己犠牲であった。

自身の好意を抱いた鈴芽という存在のために、鈴芽から好意を自らが享受することは諦めて要石となることを選択するのである。

ダイジンのこの振る舞いは物語においてはデウスエクスマキナ的なものであると思われるかもしれない。

否、そうではない。

ダイジンは鈴芽と草太の側面をもつキャラクターであるからである。

 

鈴芽的側面としては、鈴芽-ダイジンの関係と環さん-鈴芽の関係を比較すると明らかになる。

鈴芽がダイジンにかけた「うちの子になる?」はそのまま環さんからかけられた言葉である。

ダイジンは向けられた好意に返す形で無邪気に鈴芽と関わろうとするが、鈴芽の大事なもの(草太)を奪うことになってしまう。

これに対して鈴芽もまた無自覚ながら環さんの大切なもの(時間や機会)を奪っていたのだ。

そして鈴芽は草太を要石に変えたダイジンを強い言葉で拒絶するが、同じく鈴芽も環さんから拒絶される。

このようにダイジンは鈴芽が体験してきたことを、鈴芽によって経験するという存在である。

 

草太的な側面とは映画の中における役回りについての観点に依るものだ。

映画としては先に述べた自己愛の成就によってハッピーエンド的な結末を迎えることになるのだが、それはダイジンの自己犠牲の上に成り立っているものである。

ただ決してその事実が取り糺されることはない。

これこそまさに草太の発言「大事な仕事は、人から見えない方がいいんだ」を体現していると言えよう。

 

これを踏まえるとダイジンとはいかなる存在なのであろうか。

私はダイジンは鈴芽と草太が戸締まりをするにあたって乗り越えたものの象徴的存在であると考える。

このように考えると鈴芽と草太にとっての障壁をダイジンが解決するのは必然と言えるはずだ。

ダイジンは決して予定調和的な存在ではなく、あまり注目されない自己犠牲への焦点を当てるために描かれたと捉えることができるだろう。

 

すずめの戸締まりとは、自己愛を回復する物語であると同時に見えにくい自己犠牲性へも光が当てられた作品であるのだ。

 

 

 

 

 

 

さいごに

最後まで読んでいただきありがとうございました。

すずめの戸締まりという物語を私はこのように捉え、それは私自身にとても刺さるものだったので今回ブログにまとめることにしました。

他にも見た人がいたら感想を教えてほしいです。

それと映画館で見る映画はやっぱり家で見るものとは別物でした、また見たくなるものがあれば足を運びたいですね。

 

PS.芹澤朋也は最高の男

独書日記40〜『生成不純文学』木下古栗〜

お久しぶりです、うどくです。

 

先日ブログをもう一ヶ月も書いてないぞとの通知がきて、そろそろ書くかと思ってからさらに数日たってようやく今に至っています。

 

怠惰ですね。

皆さんはどんな毎日を送っていますか?

私は長いこと休憩をとっていたのでそろそろ動き出そうかと思っているところです。

と言っても特段新しいことを始めるわけでもなく、積読の消費とドイツ語の勉強をしなきゃと言ったくらいなのですが、、

 

 

 

今回読んだ本は木下古栗の『生成不純文学』です。

この本は

taknal

taknal

  • ebisu
  • ブック
  • 無料

apps.apple.com このアプリで知って読むことにした本です。

アプリを使っている人同士ですれ違うとその人のおすすめの本がタイムラインに表示されるというもので、なかなか面白いアプリだと個人的に思っています。

本が好きな人なら入れておいて損はないアプリでおすすめです!

 

 

以下本の概要紹介と感想のパートです。

 

 

この本は表題作含め4作が収録された短編集となっています。

どの短編も丁寧な文体で荒唐無稽な物語が綴られているというなんとも奇妙な本になっています。

 

ここでは特に印象に残っている2作を紹介したいと思います。

(かなり下品な内容も含まれるので注意してください)

 

『虹色ノート』

この作品はロシア人宇宙飛行士が日本のOLに思いを馳せているシーンからスタートします。

その後あるOLに視点が変わり、彼女は昼休みに弁当を食べに行った公園であるノートを見つけるのです。

そのノートの内容は、ある男性が食べたものの色がそのまま便の色に反映される体質の男性の便の色を弁当を振舞うことで染め上げていく話が綴られたものでした。

そして最終的には、OLの女性がこのノートを読んで長年の便秘を解消して話が終わります。

訳のわからない話だと思うかもしれませんが、実際に読んでみると頭を空っぽにできるし、何だか笑けてくるしで結構好きな作品でした。

 

『生成不純文学』

表題作ですが、こちらもなかなか不思議な話になっています。

この作品は、文豪の《お別れ会》の会場から駅までの道を編集者三人が歩く場面で始まり、その場面で終わります。

その道程で編集者が文豪との打ち合わせを想起するのですが、その回想が何度も繰り返されます。

例えば、編集者が文豪の首を絞め殺して逃げたのちに「殺人芥川賞」を受賞したり、

文豪のプチトマト文学論を聞いたのちに、プチトマトを貪り食べたりなど、よくわからない回想が続きます。

「これは…もしかして、中身がないんじゃないでないでしょうか」

「いや、そんなことはないだろう。取っ付きにくいというか、とにかく重厚で硬くて、おまけに堅牢なんだよ、だから中身を露出させるに至らないんだ。‬……」

これは作中の一文ですが、この本全体を表しているような気がしました。

こちらの作品の突拍子のない展開ばかりで笑えてきました。

他の2作品も(似たような感じで)面白かったです。何も考えたくない時に読むといい本かと思います。

 

 

 

 

今回は短めですが、このくらいで終わりです。

何とか1年やってきましたが、来年度も失踪せずにブログを続けて行きたいなあと思っているところです。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございます😊

次回も楽しみにしていただけると嬉しいです。

 

 

 

独書日記39〜『推し、燃ゆ』宇佐見りん〜

おはようございます、うどくです。

最近は寒い日が続いたためか、水道管が凍結してしまうというアクシデントが発生しました。

水が出ない生活はトイレに洗濯、風呂、料理とできないことが多すぎて大変でした。

緊急事態宣言だと世間では言われているのに、トイレのためにコンビニへ行くことが私にとっては不要不急になってしまうという状況は滑稽に思えましたね。

一人暮らしの通過儀礼のようなものをまた一つ乗り越えることができた気がしています。

皆さんも冷え込んだ時は気をつけてください。

 

 

 

 

今回読んだ本は宇佐見りん『推し、燃ゆ』です。

以前本屋さんに行った時に書影とタイトルに惹かれて購入し、積んでいた1冊です。

今回、芥川賞にノミネートされたということで発表の前に読んでおこうと思いこのタイミングで読みました。

(追記:『推し、燃ゆ』芥川賞受賞しましたね

今回の芥川賞には他にもクリープハイプ尾崎世界観さんの著書もノミネートされるなど気になる作品も多かったのですが、他の作品は文芸誌でしか読むことができないので断念しました。

ノミネートをきっかけに単行本化されると思うのでいつか読みたいなあと思っております。

 

 

 

以下内容の紹介と感想になっています。

 

 

 

あらすじ

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」

主人公あかりの「推し」であるアイドルがファンに暴力をふるい炎上してしまう。あかりはライブに行ったりグッズを収集することはもちろん、「推し」の発言を逐一メモし「推し」を解釈しようとしていた。しかしこの事件をきっかけに「推し」を取り巻く環境、そしてあかり自身にも変化が、

 

 推し、炎上といった極めて新しい文化現象をテーマとして扱った作品になっています。

主人公のあかりは発達障害を持つ高校生で、所謂「推し活」に全てを捧げています。

「推し」を推すことが生活の「背骨」であり、「推しのいない人生は余生だった」とまで言います。

そんな「推し」が炎上し最終的に引退に至る経緯の中で、あかりはいろいろ不安定になってしまいバイトも学校も辞めることになってしまいます。

全てを失ったと言っていいような状況でも、彼女は「推し」に縋り続けるのです。

 

 

この作品を読んで「推し」という存在は諸刃の剣のようなものであると思いました。

あかりは「推し」という存在のために辛いバイトにも耐えるなど、「推し」は確実に彼女の精神的な支柱になっていました。

またあかりは「推し」の解釈に全力を捧げていました。

これもあかり自身が発達障害のために周りから理解されなかった分、「推し」を理解するという方に気持ちが動き、彼女の精神を安定させていた要因であったと思われます。

しかし、彼女の尽力も「推し」のふるった暴力といったものを捉え切ることはできなかったのです。

 

結局、あかりにとっての「推し」は一つの偶像に過ぎません。

本人は実在したとしても、彼女にとっての「推し」はあかりの中にしかいません。

それは、あかりがお金と時間をかけて構築してきたものでしたが、不意の言動により壊れてしまう脆い像なのです。

あかりは最後の方に、「推し」が住んでいると特定されているマンションへと赴きますが、そこでの描写はとて切ないものでした。

 

突然、右上の部屋のカーテンが寄せられ、ぎゅぎゅ、と音を立てながらベランダの窓が開いた。ショートボブの女の人が洗濯を抱えてよろめきながら出てきて、手すりにそれを押し付けるようにし、ため息をつく。

・・・

あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えてた洗濯物であった。あたしの部屋bにある大量のファイルや写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が1人の人間の現在を感じさせる。

・・・

もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈できることはできない。推しは人になった。

 

「推し」への思いは、つまるところ自分の中で自己完結していたのでしょう。

この後に、あかりはやり場のない気持ちを綿棒のケースを持った手を床に叩きつけるように 振り下ろします。

これこそ彼女がこれまでしてこなかった感情の発露なのです。

この行為は、ぼんやりとですがあかりにこれからの自身の生活に目を向けさせます。

親離れとは違いますが、これも新しい一つの独り立ちの通過儀礼のように感じました。

自分の精神的支柱が崩れ去りそれを乗り越えていくあかりの姿は、痛々しく辛くなりますが、 誰にでもある体験ではないでしょうか。

「推し」がいる人もいない人も、自分に引き付けて読むことのできる作品だと思いました。

 

 

 

今回の感想はこんな感じです。

いつも以上まとまりがない文章になってしまいました、、

読了したのは1週間以上前なのですが、読んで考えたことがなかなか言語化できなくて今回は苦戦しました。

(前語りを書いてる時点では寒波で冷えていたのが懐かしいです

そんなこんなで直木賞芥川賞の発表の日になってしまいましたが、なんとか形になってよかったです。

この作品しか読めていませんが、どの作品が受賞するのか楽しみですね。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございます😊

次回も楽しみにしてもらえると嬉しいです。

 

独書日記38〜『時をかける少女』筒井康隆〜

あけましておめでとうございます、うどくです。

2021年もよろしくお願いします。

皆さんはどんな年末年始を過ごしましたか?

私はシバターが出るということで久しぶりにテレビをつけてRIZINを見ました。

試合の内容も面白く、ずっと見てきたシバター の勇姿に感動しました😭

(気になる人はYouTubeに上がってるので是非)

3ヶ日はほとんど寝てたら終わってましたね。

そして今日から授業ということで、あっという間の正月休みは終わってしまいました。

 

 

 

今回読んだ本は筒井康隆時をかける少女です。

細田守監督によって映画化もされており、そちらの方が有名で原作が筒井康隆であったと知らない人も多いのではないでしょうか。

今日の1限のドイツ語の授業で原作が小説の日本の映画を紹介しなければならないということで、原作を読むことにした次第です。

(映画は昨日の夜に見ました。)

映画も原作もどちらも一度見たことがあったのですが、今回改めて見てみると結構設定が違っていて違った魅力がありました。

 

 

 

 

 以下内容の紹介と感想になっています。

(映画も含めてがっつりネタバレしてるので気になる人は注意してください

 

 

 

あらすじ

誰もいないはずの放課後の理科室で、ガラスの割れる音とラベンダーの香りを感じて気を失ってしまう芳山和子。その後彼女で周りでは時間にまつわる不思議な出来事が起き始めて、、

 

映画版と違ったところを中心に紹介していきたいと思います。

 

登場人物

 原作は主人公の芳山和子、すらっとした深町一夫、ずんぐりむっくりの朝倉吾郎の3人組。

映画では主人公の紺野真琴、喧嘩早い部分はあるが数学だけできる間宮千昭、がっつりした風貌で医学部を目指す津田功介の3人組。

原作は登場人物は中3でしたが、映画では高3になってました。

 

タイムリープ

原作では和子はあまりタイムリープは使いこなせませんでした。

最初にタイムリープしたのはトラックに轢かれそうになった時で、その後自分の不思議な能力に怯えてしまいます。

友人や理科の先生に相談し、引き金となった理科室の事件までタイムリープしようとするのですが、その引き金も鉄骨が落下してくるという危険な状況でした。

映画版の真琴はタイムリープを上手く使いこなしていたと思います。

最初のタイムリープこそ電車に轢かれそうになるという原作と似た状況ですが、その後は長くカラオケにいるためにタイムリープしたり、自分のミスをなかったことにしたりと思うがままにタイムリープを使っていました。

タイムリープに使うものも原作版ではラベンダーの香りのする薬品、映画版ではくるみ型の何かでした。

 

未来について

原作では一夫がタイムリープしてきたのは2660年であることが明かされています。

そこでは科学技術が進歩しすぎた結果、子どもの教育にかかる期間があまりに伸びすぎてしまったために催眠学習技術が進歩し導入されたなどが語られます。

(ちなみに地球でない惑星への移住も進んでいるようです)

そのため一夫は実は11歳でありながら、大学教授と同等の知識があり、タイムリープの薬品を開発する過程のミスで未来へ帰れなくなったのだと明かされます。

未来に帰る際には、関わった人との記憶を消さなければならないという決まりもあるようです。

映画版では未来についてあまり明らかにされません。

ただ千昭の

「川が地面を流れてるのを初めて見た。自転車に初めて乗った。空がこんなに広いことを初めて知った。なにより、こんなに人がたくさんいる所を初めて見た。」

という言葉から戦争か何かで地球が酷く荒廃してしまったのではないかと考えることもできます。

過去にきた動機も見たい絵があったということでした 。

未来へ帰る際にも、関わった人の記憶は消さなくていいようで、急遽留学するという形で姿を消すことになりました。

 

原作と映画版のつながりとしては、和子が真琴のおばとして登場しており、タイムリープについての相談相手になっていました。

 

原作はSF感が強い作品でしたが、映画版は青春要素が強まった気がしました。

タイムリープ能力に怯える和子に対して、最初は何も考えずタイムリープを楽しんでいましたが、繰り返す中で内面が変化していく真琴の対比は設定の上での年齢の違いが生きている部分ではないかと思いました。

どちらも未来から来た人物に好意を伝えられるものの、未来に戻るために離れ離れにならなければならないところも重なります。

ただ記憶が消されてしまうのと、いつかわからない未来までその人と出会うのを待ち続けるのと違った切なさがあると思いました。

 

映画しか見たことない人も、原作は100ページちょっとしかなく1時間もかからずに読めるので是非読んでもらえたらと思います。

時をかける少女』を二度楽しめると思います。

 

 

 

今回はこんな感じです。

2020年のうちに何冊か読んでいた本があるのですが、内容的な意味でも、新年に読んだ本を紹介したかったという意味でもこの本を今回は紹介しました。

前に読んだ本も面白かったのでどこかでまとめて紹介したいと思います。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございます😊

次回も楽しみにしてもらえると嬉しいです。

 

独書日記37〜『きみが夢に出てきたよ』モモコグミカンパニー〜

こんにちは、うどくです。

皆さんは物事を続けるのは得意ですか?私は苦手です。

大学に入ってから、何かを始めようと自分で思っても全く続かず困っています。

これが面倒なことだけでなく、好きなことにも当てはまってしまうんです。

私が好きなもので真っ先に上げるものといえばポケモンなんですが、小学1年生からゲームを始めて以来ずっとコンスタントにやっているという訳ではないんです。

小学3、4年生はサッカーに没頭してましたし、高2、3も全く触れていませんでした。

これが最も顕著に出るのが音楽で、一ヶ月周期で飽きが来ると言うか、新しいものにはまってしまうんです。(ハマっている時は耳にタコができるほど聴くのですが、、)

そんな訳で好きな歌手だったり、アーティストを聞かれると困ってしまうんですよね。

 

 

 

前語りがだいぶ長くなってしまいました。

今回読んだ本は

モモコグミカンパニー『きみが夢に出てきたよ』です。

著者はBISHのメンバーです。

少し前にTwitterで著者の

本の中の言葉はSNS上のとは違って、拡散するものでもなくて、自分の心に留めておくものだと思う。SNSと同じ、"言葉"でも読んだ人にしかわからないっていう、閉じていることが本の魅力だと思う。

というツイートに何回いいねしてもしたりない程に共感しまして、そこから高校生のどっかではまっていたBISHに再びはまっているという状況にいます。

最近読んでいた本が重めのものばっかりだったので箸休め(と言っちゃなんですが)としてはちょうどいいんじゃないかということで今回はこの本を読むことにしました。

 

 

 

 

以下本の内容紹介と感想になっています。

 

 

 

この本は28作のエッセイが収められたエッセイ集になっています。

クラウドファンデングを通して制作された本で、支援者に毎週書き下ろしのエッセイを配信にそれについての反応をもらいながら書いていくという方法で書かれています。

そんな訳で、一つひとつは独立しているエッセイのなかにつながりを感じることができました。

エッセイも著者のモモコグミカンパニーとしての活動を通してや日常生活の中で気付いたことが書かれていました。

中でも好きだったものを何作か紹介したいと思います。

(閉じている本を大事にする著者を尊重して、内容については語りすぎず、感想を多めにしようと思います。

 

愛すべき無駄時間

コロナ禍においてリモートワークが広まったために、無駄が省かれるようになったことについて考えたことが綴られています。

私自身、効率や生産性というものが強調される社会には生きづらさを感じていたので共感できました。

国会議員のLGBTの人々に対する生産性がないと発言したことが、人を生産性という価値観で測ることは残酷なことであり暴力的とすら思えませんか?

物事に関しても、効率の悪いものを「無駄」と切り捨ててしまうことは少し寂しさを感じる部分があります。

私がこれを強く実感するのは大学の授業です。

確かにオンライン授業は十分授業としての役割は果たせていますし、何ならキャンパスに行く時間が省けてゆとりのある生活を送れています。

ただキャンパスの中を歩くときの高揚感(最初だけでしょうが)を感じたり、知らない人に囲まれ難しい内容の授業を受ける緊張してみたり、授業中の周りの人と話してみたりという経験はなくなってしまいました。

楽さを感じる一方で、得られる経験がなんだか無機質なものになってしまったように私には思えてしまうのです。

一つ言えることは、無駄を愛する心の余裕を持つことは人生を豊かなものにしてくれるということだと思います。

 

ユニークになりたい

ユニークな人に憧れを感じている著者がユニークになるために、ユニークであるために心がけていることが綴られています。

私もユニークな人には憧れると同時に自分もそうなりたいと思っています。

(なんだか子どもっぽいと思いますが、、

ただユニークに憧れることもユニークになろうとすることも「ユニーク」な行為ではないなと気づきました。

ユニークであろうとする人は多くいて、ユニークを目指すことは自分もその1人になることです。

ユニークは状態ではなく結果でしかないということでしょう。

では、ユニークな人とはどんな人なのか。

それは自分に正直な人でしょう。

誰1人として同じ人間はいない訳で、自分に正直であることはonly1の生き方をしているということです。

他人と比較してユニークになるのではなく、自分に目を向けてユニークである。

このような目線の向け方を心に留めたいと思いました。

 

エッセイということで、筆者ならではの体験に基づいて書かれており伝えたいことが生きたものとして受け取ることができました。

文体も柔らかく読みやすかったです。

BISHやモモコグミカンパニーを知らない人でも楽しめる1冊だと思います。

 

 

 

 

今回の感想はこんな感じです。

著者のツイートにあった「本の閉じているという魅力」は大事にしていきたいとつよく感じました。

この思いをより一層強くしたのは記事を読みまして、それが下の記事になります。

t.co

この記事は東浩之氏が新しい配信プラットホームを開発するにあたって考えたことが綴られています。

話題の中心に据えられているのは「無料」というものです。

東氏は無料こそ諸悪の根元だと考えています。

哲学者は昔から商品交換と私有は貧困や争いを産むものでしかなく、贈与や共有の社会こそ望ましいと考えました。

それを社会主義によらず達成したのが、テクノロジーとビジネスモデルが融合して実現したネットなのです。

ただ、東氏は疑問を呈します「無料は必ずしも善であるか?」と。

ネットの無料配布は、ポストトゥルース客観的な事実や真実が重視されない時代)やフェイクニュースを生み出しました。

エンターテイメントの無料配布は、一握りのYouTuberに富が集中する不健康な生態系を、評判の無料配布は荒廃したSNSを生み出したと指摘します。

加えて、これが無料配布できるのは企業の肩代わりがあるとも指摘します。

その費用は広告費などによって埋め合わせられるが、企業は大量の広告を集め自身の価値を上げるためユーザー(数)を最大化することを運命付けられてしまいます。

その結果、それらの企業が提供するサービスはその特性関係なく一様なものになるのです。

TwitterYouTubeにインスタのストーリー機能のようなものが導入されました)

世界中のあらゆる人が同じデザインの同じデバイスで、同じデザインの同じアプリで、同じようなニュースにいいねをおす。

無料は文化の多様性を押し殺しつつある。

これがディストピアでなくて何なんだと東氏は言います。

 

このような視点は持ったことがなく目から鱗でした。

そんな中でやはり、「閉じられている」本の存在は大事にされなければならないと私は思います。

身銭を切ってどの本を買うか選択し、本を開いて、著者と1対1の対話を行う。

本が有る限り著者の多様性に飲み込まれない独自性は保たれるが、その本を選択していると同時に私たち自身も独自性を表明していると言えるでしょう。

本を買うということは、1人では非力な私が迫りくるディストピアに対抗する一つの方法である。

こんなたいそうなことに託けて、私はこれからもたくさん本を買って、本を積んでいくことにしたいと思いました。

 

これまでエッセイというものを読んでこなかったのですが、なかなか良いものだと思いました。

また面白そうなものを見つけたら手に取ってみたいと思います。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございます😊

次回も楽しみにしていただけると幸いです。

独書日記36〜『「小児性愛」という病』斉藤章佳〜

こんばんは、うどくです。

こちらは雪は降っていないとはいえ、寒い日が続いております。

そうなると布団から出るのが億劫でつい二度寝してしまったり、布団に入ったまま作業をして寝落ちしてしまったりと寝過ぎてしまう毎日を過ごしています。

私は実家にいた時朝はさっぱり起きれなかったんですが、一人暮らしをして結構経ってくると起きなければならない最低ライン直前には起きれるようになるもんですね。

結局のところは気持ちなんだったのかと思う最近です。

 

 

 

 

今回読んだ本は

斉藤章佳『「小児性愛」という病-それは愛ではない』

です。

これも授業で関連で興味を持って読んだ本になります。

SM嗜好を病理として扱う言説の歴史の上での変化を扱った授業の回がありまして、そこでSM嗜好を持つ人が自身をLGBTと同列に扱うようにと主張をしていることを知りました。

私としてはSMには加害性があって同列には語れないのではと思いつつ、かと言って個人の嗜好を病理とみなして否定してしまうのもどうなのかと思っていました。

SM嗜好関連で読みやすそうな本がなかったので、この本を読んでみようと思った訳です。

 

 

 

 

以下、内容の紹介と感想になっています。

 

 

 

まず本書において語られているのは、加害者に共通する特有の"認知の歪み"についてです。

行動前:自分は大人の女性に相手されないから、子どもに手を出すしかない

行動中:この子は、こういう性的なことが好きみたいだ。

行動後:何をしても騒がなかったってことは、この子は自分のことが好きに違いない。2人は純愛で結ばれている!

このような例をとって、段階を追って自分の行動を正当化して加害を進めていく心情の動きを説明しています。

ただ同時にこのような心の動きは、犯罪者に特有のものではなく人間誰もに当てはまるとも指摘されていました。(ex.ダイエット中にラーメンを食べてしまう時

 

次に語られるのは、加害者らのバックグラウンドや再犯率の高さです。

バックグラウンドとして何らかの被害体験を持つ人は多いもののその内実は様々です。一方で共通しているのは加害行為への依存でした。

著者は小児性愛を病気とみなし治療する必要があると考え 、そのためのクリニックを開いています。

ただ自身の癖を引目に感じていてクリニックに足を運ばないことも多いそうです。

また子どもに手を出して捕まると同じ犯罪者からも卑下されたり、親族からも見放されたりと社会的に孤立してしまい、結果としてクリニックに訪れることなく再犯に及んでしまうことも多くあるそうです。

刑罰を厳罰にした方がいいとの意見も多いですが、筆者はあくまで精神的な疾患として治療する必要性を訴えます。

 

児童ポルノについてや社会構造的に見た小児性愛についても触れられていました。

実在する人物を被写体としたものを規制することはもちろんのこと、非実在の子どもを描いたものにも規制が必要であると筆者は訴えます。

加害経験のある人物がほぼ100%触れていることを指摘し、児童ポルノがトリガーになっていると主張します。

また、筆者は男尊女卑の社会が小児性愛というものを助長していると述べています。

日本には「未熟=かわいい」の価値観があります。

ここには、男性による自身の立場を脅かす可能性のない女性を評価すると言う構造があり、これは性愛障害者らが自分を脅かさない子供という存在に自分を「受け入れる」よう押し付けていることに通じると言うのです。

これに加え、日本社会には「女性が男性の性欲を受け止めるべき、社会によってケアされるべき」という通念があるともいいます。

日常生活の中で男性の性欲を喚起するものを目にする機会があまりにも多いことや、コンビニから成人向け雑誌の販売中止に対する「それでは性犯罪が増加する」という反論をその根拠に上げていました。

 

 

読んでいてしんどい部分が多い本ではありましたが、いろいろ考えさせられる部分がありました。

被害者を思うといたたまれない気持ちになりますが、加害者も気づかぬうちに男尊女卑の思考を内面化しふとしたきっかけで加害に及んでしまうことを恐ろしく感じました。

ただこの本を読んで見て小児性愛や後天的な性的嗜好に関しては、LGBTと同列に語られるべきでないと感じました。

加害者を擁護するつもりは全くありませんが、人間何かに依存しまうことはよくあります。

依存先がこのような加害行為になる恐れがこの日本社会で生きる男性には誰でも可能性としてあることは怖いことだと思いました。

これまで二次元における児童ポルノは許されてもいいのではないかと思っていました。

しかし、それらが確実に犯罪のトリガーであること。

そして「それらがなくなると犯罪が増える」という主張の裏に「女性が男性の性欲を受け止めるべき、社会によってケアされるべき」という通念があると気づきました。

本屋でそのようなイラストが表紙となっていることに不快感を感じる多くの人に我慢をしいている現状も、この通念の二次的影響だと思います。

男として生きる者は、日本社会と小児性愛が地続きであること、そして男尊女卑的価値観に自覚的にならなけらばならないと思いました。

 

 

 

今回はこんな感じで終わりたいと思います。

センシティブな話題を扱いましたが、どこか不快にさせる表現があったとしたら謝罪いたします。

ただ一度、このような話題に触れられたのはいい経験になったと思います。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございます😊

次回も楽しみにしていただけたら幸いです。

独書日記35〜『フェミニスト現象学入門』稲原美苗 他3人編〜

おはようございます、うどくです。

授業もあと1週間受けたら冬休みになり、1月が終わると1年生として受ける授業も終わりになります。

あっというまだったなーと早くも思っています。

今年は3月の合格までは人生で1、2を争うストレスフルな生活でしたが、それ以降はバランスをとるかのようにストレスフリーな生活を送ることになりましたね。

 

授業もほぼ全てオンラインで、言ってしまえばyoutubeで勉強系の動画を見てるのとそんなに変わんないなーなんて思っていました。

(zoomのチャット機能でコメント求められるのとかまさにって感じです) 

 

 

 

 

今回読んだ本はフェミニスト現象学入門』です。

授業で差別をテーマにしているものがありまして、その中で勧められていたので気になって手にとってみました。

近年になってフェミニズムというものが広く知られるようになってきましたが、一部の過激な人を取り上げて揶揄するような風潮が好きではないと思っていたのもあります。

(そもそも過激化どうかを判断しているのは、古い価値観による基準かもしれませんが、、

私自身は男性ということもあり、このような議論な最中では肩身が狭いというか、自分の中にある偏りに気づくことが多くしんどいと感じることが多いです。

だからこそ今向き合わなければならないのかなと思って今回読みました。

 

 

以下本の内容の紹介と感想パートです。

 

 

まずフェミニスト現象学とは、現象学の方法論を用いて主流の現象学が見落としてきた考察の中心に据えるものでフェミニズム現象学のハイブリッドのような学問分野です。

またその扱うものも女性に対する差別にとどまらず、さまざまな差別を生む規範や制度の批判、解体をも含み、広い射程を持っています。

現象学的方法論とは、生きられた経験を当事者の視点から分析するという特徴をここでは言います。

つまり「マイノリティ」と呼ばれる人々の経験について当事者の視点から探究する学問であるのです。

この本では、女性や障がいを持つ人、LGBT、外国人などのさまざまな身体体験が1人の人間の視点から記述され考察が加えられています。

 体毛とか男性的な特徴はなくなってほしいとは感じます。いかにも男らしい部分には整理的嫌悪感を感じます。女性の身体がほしいとは思わないんですが、よく夢を見るんです。自分の胸に乳房がついている夢なんです。それも欲しいとは思いませんが、あるはずだという感じです。

・・・

事故で手足を失った人が、すでにないにあたかも手足がそこにあるような痛みを感じるっていいますよね。僕は経験はないんですが、そんな感じなのかなと想像することがあります。

これはトランスジェンダーの当事者が自分の身体経験を説明したものですが、三人称視点の研究ではわからない生の感覚が伝わってきてきます。

こういうのが、フェミニスト現象学の魅力なんだと思いました。

また、自分の潜在的な偏ったものの見方を目の当たりにすることも多くありました。

特に印象的だったのは、前戯という言葉に対する指摘です。

実際、男性たちはしばしば、男性器の挿入と射精だけをセックスの目的とみなす。このセックス観においては、他の性的な触れ合いは、すべて挿入と射精のためのための「前戯」にすぎない。

こう考えているかどうかに関わらず、言葉の裏にある思想は怖いなーと思いました。

他にも外見やセクハラなど、差別から派生する問題についても触れられていて興味深かったです。

最近で言うと、作家の川上未映子さんが

という ツイートをしていました。

私はちょうどこの本を読んでいたこともあり、こういうことをあくまで当たり前のこととして認識できる自分はマジョリティに属する人間なんだなーなんて思い知らされたということがあります。

ただリプ欄には

「人生つまんなそうw」

「嫌ならやるな」

「息子がかわいそう」

やもっとひどい内容のものまで様々な反応がありました。

皆さんはどう思いますか?

そこまで気にしなくても、、という気持ちもわからなくはないですが、だからと言ってそんな言葉を浴びせてまで「いやーん」を守らなければならないかなーと思います。

日本社会が男性中心的であるのは言うまでもないことで、このように1人の女性の訴えを寄ってたかって非難するさまは、男性中心的とも受け取ることもできます。

「これまでこうだった」という言葉も多くありましたが、以前はよりこの傾向が強かったのは事実です。

差別をなくす機運が高まっている今、このようなセンシティブな話題に自分が何を感じるかを丁寧に観察すると、思いも寄らない自分の考えが見えてくるかもしれません。

そんな中で大事なのは、相手を対象として捉えるのではなく、当事者の立場に立つことなのでしょう。

 

この本は現象学とありますが、専門的な部分はわかりやすく説明されていたので誰でも読みやすいものであったと思います。

(私は前回読んだ『現象学入門』ではフッサールが中心でいたが、この本はメルロ・ポンティの議論がよく出てきたので読まなくてもという感じでした)

気になった人はぜひ手にとってみて下さい。

 

 

 

今回の感想はこんな感じです。

私は以前、このようなジェンダーに関する議論が流行っていく中で、生きる上でのロールモデルが失くなうなーと不安に感じていました。というのも、「あなたらしく」より「こうあるべき」と言われた方が楽だと思っていた部分があるからです。

ただ、それはあくまで自分がマジョリティに属していたからこそ思えていたことなんだなと今回実感しました。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございます😊

次回も楽しみにしていてください。