独書は毒っしょ

読書の記録

独書日記27〜『タイタス・アンドロニカス』シェイクスピア/小田島雄志訳〜

こんばんは、うどくです。

アニメや映画の有名どころを洗っていきたいこの夏休みなのですが、マルチタスクをどうしてもしたい性質でして何をしようか悩んでいるのであります。

ルービックキューブに取り組んでみたのですが、次を何にしようか決めあぐねています。何かおすすめとかありますかね、

 

本題に戻りましょう。

今回読んだ本は沙翁『タイタス・アンドロニカス』です。

沙翁はシェイクスピアの漢字表記なんですが、カタカナだと題名が1行に収まらないのが嫌で今回は漢字表記にしました。

シェイクスピアといえば四大悲劇が有名ですが、この題名のかっこよさに惹かれてこの本を手に取りました。今回が初めてシェイクスピアに触れたのでまたどこかで四大悲劇も読んでおきたいものですね。

 

 

 

それでは感想パートです。

 

 

まずはこの本のあらすじです。

時代は古代ローマ帝国が全盛を誇った頃、ゴート人を討伐したタイタス・アンドロニカスはゴート人の女王タモーラとその家族たちを捕虜として連れながらローマに帰還した。そして死んだ者達への弔いとしてタモーラの長男を殺した。これによりタモーラはアンドロニカス一族への復讐を決意することになり、彼女による復讐劇が繰り広げられることに、、、

この作品も悲劇となっていますが、その残虐で暴力的な展開には衝撃を受けました。

下手な鬱展開が謳われている他の作品よりもよっぽど救いようのない展開です。しかし、読後感としては胸糞悪さをあまり感じない不思議な感覚を抱きました。

復讐やそれに対する報復として多くの人物が死んでしまうのですが、彼らの死は自業自得としか思えず誰にも同情することができないことが原因なのかと思いました。

 

全ての根本的な原因はタイタスにあるのですが、タイタスの行動はおそらく当時はさして異常なものではなかったのでしょう。まさかここまでの恨みを買うとは思ってなかったものに思われます。

個人或いは集団の当たり前が他の人にとっては当たり前じゃないんだとしっかり自覚しなければならないと感じました。

 

また、翻訳がとても秀逸で感動しました。

ムーア人の子が生まれるというシーンにおいて

ムーア人は黒人でローマにおいては忌まわしきものでした)

アーロン(ムーア人

「案じるより産ムーアやすしだ、心配はご無用、・・・」

他のシーンにおいても

タイタス

「どうだ、思えは皇帝に請願者を奉呈できるか?」

道化

「とんでもない、法廷に出たことなんか一度もありません、ほうほうのていで逃げ出しますよ。」

とこれらのように、訳書にも関わらず日本語の慣用句を使ってジョークが入れられているというのはなんとすごいことではありませんか!!!

翻訳者のプロの業には脱帽しかありません。

 

結構えぐい展開の仕方をする本ではありますが、戯曲で読みやすい作品ではあります。翻訳のされ方も秀逸でとてもおすすめの一冊でした。

 

 

 

今回の感想はこんな感じです。

戯曲は基本的に会話だけで話が進行していくので小説を読んでるというよりかは、アニメを見ている感覚に近いですね。(劇の台本なのでそりゃそう

最近は読むスピードと書くスピードのバランスのとりかたが難しいです。工夫が必要だと感じています、、

今回もここまで読んでいただきありがとうございました😊次回もぜひ目を通して見てください。

独書日記26〜『若きウェルテルの悩み』ゲーテ〜

こんにちは!うどくです。

今日は早起きに成功し幸先の良い夏休みのスタートを切ることができました。

続けていきたいものです。

 

今回読んだ本はゲーテ『若きウェルテルの悩み』です。

言わずとも知れたドイツ文学の名作ですね。

これもレポートを書くにあたって読んだ1冊となっています。前から読みたいと思っていた1冊なので、レポートのために読まなければならなくなったのはありがたいです。

 

 

それでは感想パートです。

 

 

まずはこの本のあらすじを紹介します。

青年ウェルテルはある舞踏会で美しい女性ロッテに出会い一目惚れする。しかし、ロッテには許婚がいて、ウェルテルは決して叶うことのない恋に苦しむことになる。そして、苦悩の果てに彼は自殺をすることになってしまう、、、

この自殺というものが、本が出版された当時の18世紀では衝撃的なものでたくさんの人がウェルテルを真似て自殺してしまうことになったのです。

これにちなんで、有名人の死に誘引されて自殺が多発すること をウェルテル効果と言いますね。

だから本来は有名人が自殺したとしてもその動機や方法は詳しく報道しない方がいいとされているんですがね、、(最近のニュースでは全く守られていませんでしたが

 

この本の特徴はなんと言っても書簡体小説と言われる形式をとっていて、手紙のやり取りのみで話が進んでいきます。

これだけ聞くと、そんなんで物語になるか!と言いたくなりますが読んでみると驚くほど物語の体をなしています。

手紙であるからこその真っ直ぐな心情表現は魅力的なものでした。

現代においては電話やSNSの普及もあり手紙を書く機会は減りましたが、やっぱり手紙には手紙の良さがあると思います。

適材適所上手に使い分けていきたいものです。

 

やはり、考えさせられたのはウェルテルの自殺ですね。

自分の気持ちに従って情熱的な恋に身を落とした果てが自殺ではあまりにも救いがないんじゃないかと。

やっぱり理性に従って無理なものは無理と初めから割り切る方がいいのでしょうか。

そんなん自分の気持ちを優先した方いいじゃん!と思いますか?

自分の気持ちに正直にいたいと思う気持ちはもっともなものですが、それは生きることよりも大事なことなのでしょうか。

私にはとてもそうは思えませんでした。

 

この本は古い作品でいろいろ古臭い部分だったり堅苦しい部分もありますが、それ以上に手紙のやりとりだけで進んでいくという巧みさやウェルテルの心情に今でも十分楽しむことができると思います。

 

 

 

こんなところが今回の感想です。

古典作品ということでだいぶ身構えていましたが、個人的にはだいぶ読みやすい印象を受けました。これからも時折挑戦していきたいものです。

これから頑張って、たくさんの積読を頑張って消化することにしようか、

今回もここまで読んでいただきありがとうございました😊次回も楽しみにしてもらえたら幸いです。

独書日記25〜『賢人ナータン』レッシング〜

こんばんは、うどくです。

ついに夏休みが始まりました!!!!!!👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏

夏休みを謳歌するぞーーーーー💪

と言っても、読書とアマプラにに耽ることになりそうですが(泣)

 

今回読んだ本はレッシング『賢人ナータン』

この本はドイツの文化・芸術という授業のレポートを書くにあたって読んだ本です。

中々見つからなくてネットの古本屋で購入したというものです。がっつりボロボロでビビるくらいの一冊でした。

 

それでは感想パートに行きましょう!

 

まずこの本のあらすじです。

ユダヤ人のナータンはオスマン帝国の治世下にあるイェルサレムに暮らす商人。その地でナータンとキリスト教徒の聖堂騎士イスラム教の頂点スルタンのサラディンが関わり合っていくことになって、、、

ユダヤ人社会に生きるユダヤ人を中心に様々な民族の交流が描かれている。

こんな感じでユダヤ人が中心となって話が進んでいくことになります。

ユダヤ人が非ユダヤ人社会で生きる難しさが随所に現れています。

「根っからのユダヤ人でいたいと思っても、もうそうはいかない。まして、 ユダヤ人でなくなろうとしても、それはもっと難しい!」

これはナータンのセリフでですが、とても含蓄があるものに思われます。

 

かの大詩人ハイネは、19世紀のドイツに生きた人物でありますが彼もまたユダヤ人でありました。彼はキリスト教の洗礼を受け、キリスト教社会へと馴染もうとしました。しかし、そんな彼は周りからキリスト教徒と認められることはなく、また洗礼を受けた彼はユダヤ人社会からも脱落することになってしまった。結局、彼はどの社会からもはみ出した何者でもない自分に苦しんだのでありました。

 

これとナータンは非常に通じるものであると思われます。日本は基本的に単一民族であるがために、民族間の壁を感じにくいように思われます。

民族を超えて〜と言いますが、それがいかに難しいことかが伺われます。(某感染症に罹ってしまった人に対する差別にも似たものが見える気もします)

 

自分が変わるというものは思ったより難しいことなのかもしれません。(民族に関わらず)自分の弱さを変えようと思って強くなったとしても、その強さは純なものではなく、弱さがあったからこその強さだという風に。

考えすぎですかね、、

 

 

この本は戯曲となっていて初めてこの形式を読みましたが、慣れないものでした、

しかし、喜劇として描かれているためテンポよく進む物語は心地よいものでした。

おすすめの1冊です。

 

 

今回の感想はこんな感じです。

休みはだらけてしまいがちですが、今年こそは有効に使うぞと意気込んでおります。

哲学、語学この2本柱は最低限ある程度の進捗を生み出したいものです。

ここまで読んでいただきありがとうございました😊次回もぜひ楽しみにしてください。

独書日記24〜『プラグマティズムの帰結』リチャード・ローティ〜

 だいぶ久しくなりました、うどくです。

課題終わったーーーー!!!夏休みだーーーーーーーー!!!!

となってからこれは更新したかったのですが、ブログを書きたいという気になったので書こうと思います。(ちなみにあとレポート1つで夏休みなのでもう少しではあります

 

 

今回読んだ本はリチャード・ローティプラグマティズムの帰結』です。

何となく察しはつくと思うのですが哲学書です。レポートの課題で哲学書読んで自分の考えを書くみたいなものがありまして、選択できるものの1冊で面白そうだったので読みました。

ローティはアメリカの哲学者で2007年まで生きてたそうで割と最近の人になってます。

『偶然性・アイロニー・連帯』という本も書いていています。

この本は僕がこれまで出会ってきた中で一番題名がかっこいいと思った本で、近いうちに読みたいと思っていたのも手に取った理由の一つになっています。

 

 

 

それでは感想パートです。

 

まずはこの本の概要から紹介しようと思います。

著者のローティは所謂プラグマティストでこの本はこれまでの哲学を批評してそれから抜け出そうと試みるのですが、その態度こそがプラグマティズムだというのが大筋です。

もう少し詳しく言うと、何か普遍的な真理などないのでどの哲学の立場が絶対ということはない。一歩引いた態度からリラックスした態度とっていこう、それこそがプラグマティズムだと言った感じでしょうか。

 

 

正直難しくて半分以上話は理解できてない気もするのですが、哲学書読むとはこんなもんだろうと割り切って読んでました。ただ解説が非常に明解で大筋は外さないで読むことを助けてくれました。

最初は何もわかんないけど、そこを超えたところに開けた世界が現れるまで辛抱なのでしょう。日々精進ですね。

 

 

今回の本に出てきたプラグマティズムですが、これまでの哲学の脱構築と言うものを目指したものでした。

「哲学とは何か」とはそれ自体が哲学的な問いで、哲学を語ろうとしてもそれ自体が哲学的と言う袋小路から抜け出すことができませんが、プラグマティズムにはそれが可能でメタ的な視点に立つことができるということでしょう。

 

このメタ的なという部分にかこつけて考えたことを1つ

僕は大学生なんですが、これまで某感染症の影響で憧れの(?)キャンパスライフやバイト、観光など前期の間やりたいと思っていたことが出来なかった訳でこれからもどうかわかんないという状況にいます。

世間では#大学生の日常も大事 がTwitterでトレンドになることもある中、僕自身は諦念のもと「仕方ない」の一言でそれを片付けていた部分があり、この現状を受け入れている節がありました。

そこで最近、ふとした時にこの自分の態度は一体どうなのかと思った訳です。

現状を悲観したり文句を垂れる人を見ては「でも、仕方ないじゃん」と思っていた僕。

言うなれば、メタ的な視点に立ち大人ぶっていたというんですかね、最高に気持ち悪いなあと思うのです。

現状にいろいろ思い苦しむ方がよっぽど大学生してるじゃないかと思ったのです。

ただ一方で、今から僕がそうしようとしても純粋じゃないと思ってしまうのです。

今度は以前の自分のメタ的な視点のさらにメタ的な視点に立って大人ぶろうとしてるだけなのでは、との思いが湧いてきます。

こうなってしまえばお終いです。

どう考えてもこの無限後退から逃れられない。ずっとこの気持ち悪さを感じ続ける。

(よりメタにという意味で後退ではないかもしれない

抜け出したいものです。

 

 

 

今回の感想はこんな感じです。

繰り返しになりますが中々難しい本でした。

半分も理解できていないだろうに、これでレポート書いて教授に見られるというのは恐ろしい話です。

ちなみにこれからはレポート関係で読んだ本が何冊かあるので、それについて書いていくことになる予定です。

今日もここまで読んでいただきありがとうございました😊次回もよければぜひ覗いてみてください🤲

独書日記23〜『ハーモニー』伊藤計劃〜

おはようございます!うどくです。

最近はギルティクラウンというアニメを一気見するなどしたのですが、ウイルスの蔓延が世界に危機を引き起こして、、、みたいな感じだったので最近の情勢に似ていて今見るのにぴったりだなあと思いました。

ありのままの人間が描かれている感じが良かったです。EGOISTの源流ということで前から気になっていたのでその意味でも満足でした。おすすめです。

 

今回読んだ本は伊藤計劃『ハーモニー』です。

前にも伊藤計劃の作品は読んだのですが、面白かったので他の作品も読もう!と言った心持ちで臨みました。他にも作品はあるのでそのうちに読みたいと思っているところですが、お家には本が積まれている状況なのでそこはまだ我慢ですね。

 

ここから感想パートです。

 

 

まずはあらすじです。

世界的な混乱を経たのちに人類は大規模な福利厚生社会を築き、病気がほぼなくなった世界。

その中で3人の少女ミァハ、トァン、キアンが社会を倦み自死の道を選ぶも、ミァハ1人を除いて助かることになる。その13年後、助かった2人は再会し会食をするがその最中トァンの目の前で突如キアンはテーブルナイフで喉元を掻っ切って自死を遂げる。しかし、それは世界で同時に自死を試みた6582人のうちの一人で、、

 

こんなところが話の筋ですが、どんでん返しの要素もあるのでそこにはあまり触れないで感想を述べて行こうかと思います。

 

まずは、自死というものについてですよね。

作中においては、個人は社会構成員の一員として貴重なリソースであるとの考えから自死は明白な悪として描かれています。

俳優さんが自死してしまったというニュースはまだ記憶に新しいですが、私たちの生きる社会ではどうなんでしょうかね。タブーとはしつつも選択肢の一つとして認められても良いのではとの考えが優勢のように感じるのですが、、いわゆる自己決定権というものを認めるべきだ
!とのことなのでしょう。私自身は精神疾患による自死は認められるべきではないと思うんですがね(安楽死は別として)。誰かが言っていましたが、ある研究によると自殺を失敗した人は全員が自殺が失敗して良かったということもあるみたいです。全員かは怪しいとは思いますが、衝動的な自死はやはり防がれるべきだと思うんですよ。前に読んだ本にもあったように、始める価値なんかないと思う人生だとしてもその人生を終えるべきかは別問題という非対称性は一理あると思います。

こう考える私は、作中では病気が駆逐されているということで自死が非難されるということもありなのかなとも思うのですが、、

 

もう一つは、意識というものについてです。(物語の後半のキーワードになります)

作中では、意識は利害調節の葛藤のプロセスで会議に喩えられています。この考えに従うならば、利害が一致して完全な調和を取れたなら意識は必要ないのか?と思うのかもしれませんが、そうだと考えられています。利害が一致して完全な調和を取れた状態で人間には、意識はなくただただ合理的に行動をとる存在者になるとされるのです。(ロボットみたいなもん)

人間というものは「私」という自我に他の動物とは違う尊厳を見いだしていますが、果たしてそうなのか?!という気持ちにさせられました。人間は自分らの都合のいいように自然を改変してきましたが、己の中に「私」という自然を残してあまつさえ「私」を崇め奉っているのです。これを不条理と言わずなんというのでしょう。よく謳われている自由なども、「私」に基づいているならそれは駆逐されるべき自然なのかもしれません。

その意味でカントの自由論というのは非常に的を得ているのかもしれないと思いました。理性に基づいた普遍化され得る格律に従って行われる行為こそ自由なのだと唱える彼の理論はまさしく意識のない人間像を追い求めるように唱えているように思われました。ただ、それが人間なのかという問題は傍に置かなければならないかもしれませんが、、

 

色々な示唆を得られるという意味で非常に好みの作品でしたが、話の筋を追うだけでも十分楽しめる作品であるのでおすすめです。

 

 

今回の作品はこんな感じです。

この本は本当はもっと前に読了するつもりでしたが、だいぶ遅くなってしまいました。本を手に取るというのはエネルギーがいるので逃げてしまいがちなんですよね。(他に対してエネルギーを使わないのに、

期末レポートを書くために読まねばならない本がそこそこあるので、そこについて頭を整理するためにも感想を書き留めて行こうかと思うのでここから何冊かはそういう本になります。

今日もここまで読んでいただきありがとうございました😊最後は一言一人暮らし日記です!

 

一言一人暮らし日記:この暑さはほっとけない。エアコンオン!

独書日記22〜『1984年』ジョージ・オーウェル〜

おはようございます!うどくです。

某ウイルスの感染者が再び増え始めていることになんだかなーという思いです。まあ、基本家から出ない身としてはあまり影響ないのですが、

 

今回読んだ本はジョージ・オーウェルの『1984年』です。有名な作品なので名前を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

読み始めたのは5月とかだったと思うのですが、なんせ500ページくらいあって大ボリュームということで何回か挫折してついに読み終えたという感じです。

 

これからが感想パートです。

 

 

この作品の概要としては、核戦争を経て世界に3つの大国が分割統治が敷かれた1984年において、その一国のオセアニアの所謂官僚のウィンストンが繰り広げる物語になっています。

オセアニア厳しい監視体制が整えられていて、国を統治する党とその長<ビッグ・ブラザー>への崇拝は絶対となっています。このような体制に主人公は疑問を感じていて、、という感じで展開していきます。

(話の筋には今回はあまり触れないことにします。気になる人は手に取ってみてください)

 

読んでいて一番印象に残っていたのは二重思考というものです。これはオセアニアで党員に課される望ましい理想的な思考方法で、矛盾する二つのものを等しく信じることができる思考法です。これは人々を統治するには持ってこいの考え方で、たとえ党が理不尽なことを行ったとしてもそれを理不尽と認めた上で容認できるようになるのです。これが、権力の維持に大きく貢献することは言うまでもありませんね。

ここまで聞いてそんなものが成り立つわけがないと思いましたか? そんなことはないのです。この考え方は現在の私たちの日常生活にも根深く存在しているし、また同じ仕方で権力の維持にも一役買っていると私は思いました。

日常レベルでは「痩せたい、けどお菓子やラーメンを食べたい」などこのような単純なものも<二重思考>にあたるでしょう。(これはそこまで大きな問題だと思いませんが、、)政治のレベルで考えるなら「与党がベストでないのは知っているが、与党を支持している」こんな人が多いのではないのでしょうか。このような現状が現政権の長期化の要因の一つかもしれません。

このような意味で<二重思考>を一つのテーマにしている本作品も今の時代に読んでも考えさせる部分も大きいと感じました。ただ<二重思考>には矛盾を超克して止揚するための手段となりうることもあり、一概に悪いとは言えないかもしれません。

 

もう一つ印象に残った部分として「罰」と言うもののあり方についてです。

主人公ウィンストンは「自由とは2+2=4であるといえる自由である」と言いますが、オセアニアでは党が言うこと次第でその答えは3にも5にもなるのです。(オセアニアじゃあ常識なんだよ」と言わんばかりに

これを矯正、治療するために「罰」を与えることは許されることでしょうか。これは悪に対して罰を与える応酬刑に対する、治療を目的とした目的刑にあたるものだと思うのですが、治療の名目の元に何もかも正当化されるべきか或いはその手段についても目を向けなきゃなあと思わされます。(結局は倫理の問題に落ち着きますね、)

 

だいぶ長くなってしまったのでここらへんでやめようと思います。

一冊読み終わった後の読了感は圧巻のものがあります。大きなものの前での無力感や恐怖を感じる本ではありましたが、何度も読み返す価値がある一冊だと思ったのでいつかまた読み返したいです。

 

今回の感想はこんな感じです。

話が戻るようですが、昨晩Twitterのトレンド1位に#大学生の日常も大事だがあがっていました。皆さんはどう思いますか。

私自身としてはこの生活に慣れてしまったということでいざ対面となったら億劫に思うと思うので後期はオンラインでも、、という気にもなっています。(まだ専修も始まらないですし、最初はあれほど首肯しがたかったオンラインにもこのような心境になっている自分に驚きです。慣れは怖いですね。(尚、本学も後期オンライン濃厚との噂がちらほら

今日もここまで読んでいただきありがとうございました😊最後は一言一人暮らし日記です!

 

一言一人暮らし日記:生活リズムが完成したと思い込むのは落とし穴?!

独書日記21〜『闇の奥』コンラッド〜

おはようございます!うどくです

6月に読んだ本は前回までで終わりで今回からは7月に読んだ本になっています。

レポートなどやならければいけないこともそこそこあるのですが、こういう時ほど本を読んでしまいます、、(現実逃避)

 

今回読んだ本はコンラッド『闇の奥』です。

この本は19から20世紀の移り変わりの時期に書かれたもので、著者コンラッドポーランド系イギリス人です。(今回は苦手な海外作品を読む練習ですね

読もうと思ったのはPSYCHO-PASSの一期のどっかの場面で狡噛が読んでいたということで気になっていた一冊でした。(PSYCHO-PASSはおすすめです!特に一期!!

 

 

それでは感想パートです。

 

 

 

この本の大まかなあらすじとしては船乗りのマーロウの一人称によって彼がアフリカの最奥部の貿易会社の出張部を預かるクルツという人物の救出に向かう作品となっています。

その中でマーロウの視点から、当時の西洋人が人の手が及んでいないアフリカに訪れ、そこで原住民や自然に邂逅したときの心情が描かれています。そこには主に原住民への差別的見方や大自然への畏怖がありましたね。(文字の上でしか知らない黒人蔑視の一端を生々しく感じることができます)

 

また、クルツという人物像の変化も話の筋の中では大きな意味を持っていたと思いました。

最初は貿易会社の幹部候補の一人として優れたものとしてマーロウは話を聞きますが、彼の元を目指す中で或いは彼に出会ったとき、優秀な人としての人物像は瓦解します。実際の彼は私欲に溺れ象牙を手に入れることに囚われているのでした。

クルツが死際に口にした「地獄だ!地獄だ!」という言葉は荒切ってしまった一人の人間を見出すこともできるのではないかと思います。

 

印象的な場面もありました。(以下の文は抜粋ではないです)

文明からかけ離れた大地で生きる人々を「解放された自由な怪物」と形容するマーロウ。しかし。彼は自身もまた原住民たちと同じ人間であることに強く疑問を感じるのであった。そして、彼は本当の人間としてその真実を認めるには信仰が必要なのだと信念を得た。

西洋人の蔑視が端的に現れているシーンです。文明の柵の外にいる彼らと自分たちをつなぐには信仰が必要というのは、アメリカ大陸支配の際に原住民に救済としてキリスト教化を強いた論理とは逆ではありますが、根本としては同じ考えが通底していると思いました。しかし、信仰の強制は十分な暴力だと思うのですが、、

 

最後に本の題名にもなっている闇の奥というという言葉ですが、これはいろいろな含蓄があると思いました。アフリカの森林の奥地を目指す上での「闇の奥」や人間に備わっている負の部分としての「闇の奥」、或いは人種差別的な観点や西洋文明の負の面にもこの言葉が意味を持つのかもしれません。

 

なんだかわかったように色々話してきましたが、この本は結構難解でようわからんなあと思いながら読んでた部分が多かったですね。難しそうなので後書き読んで本文に行ったのですが、それでも、、という感じでした。まだまだ精進ですね。

 

 

今回の感想はこんなもんです。

文学作品というのを「読める」ようになるにはどのくらい時間がかかるのでしょうか。いつまでもストーリーを追うに終わっている自分を卒業したいものです、

今回もここまで読んでいただきありがとうございました😊最後は一言一人暮らし日記です。

 

一言一人暮らし日記:ゴミ出し忘れは大誤算