独書日記24〜『プラグマティズムの帰結』リチャード・ローティ〜
だいぶ久しくなりました、うどくです。
課題終わったーーーー!!!夏休みだーーーーーーーー!!!!
となってからこれは更新したかったのですが、ブログを書きたいという気になったので書こうと思います。(ちなみにあとレポート1つで夏休みなのでもう少しではあります
今回読んだ本はリチャード・ローティの『プラグマティズムの帰結』です。
何となく察しはつくと思うのですが哲学書です。レポートの課題で哲学書読んで自分の考えを書くみたいなものがありまして、選択できるものの1冊で面白そうだったので読みました。
ローティはアメリカの哲学者で2007年まで生きてたそうで割と最近の人になってます。
『偶然性・アイロニー・連帯』という本も書いていています。
この本は僕がこれまで出会ってきた中で一番題名がかっこいいと思った本で、近いうちに読みたいと思っていたのも手に取った理由の一つになっています。
それでは感想パートです。
まずはこの本の概要から紹介しようと思います。
著者のローティは所謂プラグマティストでこの本はこれまでの哲学を批評してそれから抜け出そうと試みるのですが、その態度こそがプラグマティズムだというのが大筋です。
もう少し詳しく言うと、何か普遍的な真理などないのでどの哲学の立場が絶対ということはない。一歩引いた態度からリラックスした態度とっていこう、それこそがプラグマティズムだと言った感じでしょうか。
正直難しくて半分以上話は理解できてない気もするのですが、哲学書読むとはこんなもんだろうと割り切って読んでました。ただ解説が非常に明解で大筋は外さないで読むことを助けてくれました。
最初は何もわかんないけど、そこを超えたところに開けた世界が現れるまで辛抱なのでしょう。日々精進ですね。
今回の本に出てきたプラグマティズムですが、これまでの哲学の脱構築と言うものを目指したものでした。
「哲学とは何か」とはそれ自体が哲学的な問いで、哲学を語ろうとしてもそれ自体が哲学的と言う袋小路から抜け出すことができませんが、プラグマティズムにはそれが可能でメタ的な視点に立つことができるということでしょう。
このメタ的なという部分にかこつけて考えたことを1つ
僕は大学生なんですが、これまで某感染症の影響で憧れの(?)キャンパスライフやバイト、観光など前期の間やりたいと思っていたことが出来なかった訳でこれからもどうかわかんないという状況にいます。
世間では#大学生の日常も大事 がTwitterでトレンドになることもある中、僕自身は諦念のもと「仕方ない」の一言でそれを片付けていた部分があり、この現状を受け入れている節がありました。
そこで最近、ふとした時にこの自分の態度は一体どうなのかと思った訳です。
現状を悲観したり文句を垂れる人を見ては「でも、仕方ないじゃん」と思っていた僕。
言うなれば、メタ的な視点に立ち大人ぶっていたというんですかね、最高に気持ち悪いなあと思うのです。
現状にいろいろ思い苦しむ方がよっぽど大学生してるじゃないかと思ったのです。
ただ一方で、今から僕がそうしようとしても純粋じゃないと思ってしまうのです。
今度は以前の自分のメタ的な視点のさらにメタ的な視点に立って大人ぶろうとしてるだけなのでは、との思いが湧いてきます。
こうなってしまえばお終いです。
どう考えてもこの無限後退から逃れられない。ずっとこの気持ち悪さを感じ続ける。
(よりメタにという意味で後退ではないかもしれない
抜け出したいものです。
今回の感想はこんな感じです。
繰り返しになりますが中々難しい本でした。
半分も理解できていないだろうに、これでレポート書いて教授に見られるというのは恐ろしい話です。
ちなみにこれからはレポート関係で読んだ本が何冊かあるので、それについて書いていくことになる予定です。
今日もここまで読んでいただきありがとうございました😊次回もよければぜひ覗いてみてください🤲