独書日記19〜『生まれてこないほうが良かった〜存在してしまうことの害悪〜』デイヴィッド・ベネター〜
おはようございます!うどくです。
予約投稿機能を使っていたつもりが、うまくいっていませんでしたーーー、、
使い慣れない機能には注意ですね。
今回読んだ本はデイヴィッド・ベネターの『生まれてこないほうが良かった〜存在してしまうことの害悪〜』です。
なんて物騒なタイトル!!と思いましたか?(まあ、生まれてこないほうが良かっただなんて親の前では口が裂けても言えませんね、、)
しかし、どこかで聞く言葉ですが「なんで私なんか産んだの?」には強い示唆が含まれていると思いませんか。つまり、親に子どもを産む権利はあるのか、或いは子に生まれることを拒否する権利はあるのかということです。
こんなことに疑問を持った僕は反出生主義を謳うこの著者に出会ったわけです
ここからは感想パートです。
(今回は内容が面白かったのでその紹介が拙いですが多くなります、
この本は端的に言うと、
存在することが害悪であるということを論じた上で、あらゆる人生はとても悪いこと、子供を作る義務はなく子作りはしてはいけない道徳的な義務があること、妊娠の初期段階における中絶は道徳的に良いということ、人類はこれ以上存在すべきでなく速やかに絶滅すべきである
ということが論じられていきます。
(言いたいことがたくさんあることはあると思いますが、ここは押さえてください)
筆者がなんで存在することが害悪と述べるかというと、その大きな要因として快楽と苦痛の非対称性が提示されます。簡単に説明すると、苦痛がなくなることはそれを享受する人がいなくても良いことで、その反対に快楽がないことはそれが剥奪でない限りは悪くはないというものです。(この快楽と苦痛の非対称性というのは結構面白いというか、学ぶ部分があると思いませんか。)
まあ、仮にこれが言えたとしても存在することは害悪だ、とまで言えるのかと思ったり、反論する人の方が多いんじゃないかと思います。(僕も積極的には賛成はできないです
ただこの議論の意義というか大切な部分も紹介したいと思います。
1つ目は、非同一性問題という倫理学上の難問に一つの答えを提示できること。
非同一性問題とは(例
・ある夫妻が子どもを持とうと思った時、その子どもはなんらかの故意の事故により不利益を被ることが決定しているとする。この子どもが生まれて不利益を被ったとしても、事故を起こした人や産んだ親を責めることはできない。なぜなら、そのタイミングで子づくりが行われなかった時、その子どもは存在しないからだ。
この問題は一見答えは得られないように思われますが、著者の考えを借りると存在することが悪いんだから産んだこと自体を責めることはできるよ、だから悪いのは親との結論が下るのです。
2つ目は、子作りしてはいけないというのは道徳的な義務(〜べき)であり、法的な義務(〜なければならない)ではないということですね。
これは子を持つということについてより責任を持てるんじゃないかと思います。少なくとも虐待はなくなるんじゃないかと、、(著者は子は持っちゃダメというのですが、、)
3つ目は、生きることが害悪だからといって死ぬべきではない、寧ろ生きることが害悪だと自覚した上でもより良く生きることはできるというのです。
ここは勘違いされる部分なので注意が必要ですね。
ここでは、生を始めないことと生を続けないことには非対称性があるということがポイントです。
ざっとこの本の内容を駆け足で追ってきましたが、指摘したい部分はあるかもしれません。
ただ、本文ではくどいほどに反論を想定して丁寧に議論が進められてい流ので気になった人はぜひ手に取って見てください。
直感に反することをとことん正しいのだという議論を目にするのは滅多にないもので面白いものですよ。(私たちが信じていたものとは、、となります)
話したいことはいろいろありますが、長くなったのでここら辺にしときます。
今回の感想はこんな感じです。(感想の部分はあんまなかった気がするのですが、、)
実際のところ中々興味深い話題ではあったのですが、反論を意識しすぎる議論というのも読んでいると鬱陶しく感じるもんです。(結構雑に読んでた部分もありましたー、)
まあ繰り返しにはなりますが良い経験でした。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました😊最後は一言一人暮らし日記です。
一言一人暮らし日記:少しも終わる気配のない梅雨