独書は毒っしょ

読書の記録

独書日記8〜『流浪の月』凪良ゆう〜

 

 おはようございます!

 西日本と東日本では日の出の時間が結構違うということを最近知って驚きを隠せないでいるうどくです。日本って結構曲がってるんですね。

 

 今日は早くも本題に入っていこうと思います。今日読んだ本は凪良ゆう流浪の月です。いろんな人からお勧めされていたり、2020年の本屋大賞受賞作品ということで前々から読みたいと思っていた一冊でした。

 

 感想パートへ早速レッツゴーです。 

 

 

 この作品の特徴は小児愛を大きく扱っているということです。これをめぐる男女の一般的には歪とされる愛の形(あくまで”一般的”ということを留意ください)を女性の立場が中心となっていますが、二人双方の立場から描かれています。女性が児童の時に小児愛という性癖を持つ男性の元に身を寄せることになったことになり二人の関係は始まっていく訳ですが世間的には認められるものではなくて、、と言った感じが概要です。 

この本には

「愛とは一緒くたに言うが、果たしてそれでいいのか?」と訴えかけられます。さりげなく尋ねられて聞こえていながらも聞き返すと「やっぱいいや」と返されるが、何度も心の中で反芻してしまう、そんな訴えかけ方をしてくる本です。(伝われ!)

 小児愛とそれを受け入れる少女という形も一つであるのかもしれませんが、少なくともこの社会では異常とされてしまう。しかし、両者の合意の上で成り立つ一緒にいたい等という気持ちには理解には苦しみません。ただし、自分の近しい人がそうだったら?と彼らの周りの人の様子を描くことで問いかけてきます。あくまで自分のことを理解してもらえないでいる女性と男性の姿は決して荒唐無稽なものではなく寧ろリアルなものとして私たちの心に残り続け、読み終わった時には感動すると共にボーッとしてしまうでしょう。この感覚をぜひとも味わってもらいたいところです。

 

 ここら辺からは感想からは結構逸脱してしまいました(推敲中のうどく) 

 

 この本を読んで一番考えさせられてのは他者を理解するということについてです。差別の撲滅は違いへの理解なしには達成し得ないものですが、ここで私が言いたいのは一人ひとり違いはあるんだからそれを互いに理解して認め合って云々という話ではありません。寧ろその逆を主張したいのです。そもそも違いをいとも簡単に違いを理解し受け入れることはできないでしょう。しかし、そこで生まれる理解と扮した同情がマイノリティーへの一番の差別ではないかと思うのです。この話でも小児愛癖を持つ男性に誘拐されたという上部の事実だけで女性には哀れみの目が向けられたり、変に気を遣われたりという場面がありますが、これは女性にとっては自分が理解されていないように感じる訳です。男性についても然りで少数派の嗜好であっても好奇の目を向けられたり非難されるのはお門違いで、言葉だけの理解(同情)は結局は彼に疎外感を与えるだけなのです。そんな意味でもぜひ読んでほしい一冊。(訂正:誤植です)

 では、何をしなければならないのか。一つの解決策として文学を通して共感性を育むということがあるのではないでしょうか。物語を特殊な事象としてではなく、その物語の中の二人の名前を現実の誰かと或いは一般人称に置換できるようになった時、理解までとはいかずとも違いに対して寛容に共感し差別と言ったものは無くなっていくのではないだろうか。またそれと同時にこの物語の中の二人の損なわれていた(差別で否定されていた)人間性も回復するのだろう。これは現実でも起き得るのではないだろう。そんな意味でもぜひ読んでほしい一冊。(こっち)

 

 

 

 

 

 

 今回は結構センシティブな問題を扱ったので言葉遣いには気をだいぶ遣いました。もし至らない部分があってもご容赦ください。ちなみに性癖という言葉ですが、今でこそ性的嗜好の意味合いで多く用いられますが元々は性質全般に対しての偏りを表す言葉として用いられていたんですよね。言葉は生きているとは言いますが、使われる言葉の意味と本来の言葉の意味が変わってくるというのは面白いですね。もう一つ余談ですが、事件の被害者の実名報道というものにも被害者を「被害者」ではなく一人の個人として扱い、(共感できたなら)前述の人間性の回復に寄与するのではないのかとも思うと、頭ごなしに実名報道も否定できないなあと。

話がそれましたが、今日も最後まで読んでいただきありがとうございました😊最後は一言一人暮らし日記です。

 

一言一人暮らし日記:実家出たという実感ないが、土の戸を思い出す今日のこの頃。