独書は毒っしょ

読書の記録

独書日記5〜『沈黙』遠藤周作〜

 

 こんばんは!

 メモに書いてたこの文章が飛んでしまって萎えてる上にシチューに苦手なニンジンを多く入れてしまい困っているうどくです。皆さんは食べ物の好き嫌いありますか?私は小学生が嫌いと一般に思われている野菜は大抵苦手です、、

 

 

 さて、本題に移っていくとしましょう。

今日読んだ本は遠藤周作『沈黙』です!この本を手にとったきっかけは所謂ジャケ買いというやつでここであまり話せるエピソードもないので早速感想パートにいきましょう!

 

 

 

 今回の話は切支丹禁制下の江戸時代初期の日本が舞台でポルトガル人の司祭キリスト教布教に奮闘していくというものです。テーマとなっているのは言わずもがな宗教ですが、殊に取り上げられているのは「神の沈黙」というものです。ここで「神の沈黙」について僕なりにここで説明しておくと「神がいるのにどうして不幸は無くならないのか」というような問題があるようにに信仰に対して救済が伴わない、つまり神が施しをくださらないと言った状況のことでしょう。

 

 ここで問題になってくるのは信仰と救済の関係でないでしょうか。

 信仰の結果として苦痛、苦悩からの解放といった実際的なものがあるのか、信仰そのものが精神的支柱になるのか。前者の立場に立ったとき、「神の沈黙」は起きうるのでありますが、後者の立場に立つとそれは起きません。(まあ、教会としては後者はやや弱く主張しづらいのでしょうが、

 しかし、精神的支柱としての「救済」こそ本当の信仰に対する対価ではないのでしょうか。目標に向かって何か努力をしているときのエネルギーも一種の自分を信じる力「信仰」でこれに似た物だと思うのであります。

 

 話を戻します。この本の表現上の特徴として物語が三者的な視線からと司祭の手記という一人称的視点の両方から描かれていることがあります。これのおかげで、日本から見たキリスト文化の特異さと司祭から見た日本という環境の特異さが際立って表現されています。これはどっちの立場にも入れ込まず中立に宗教という問題を考えることにも役立ちました。

 

 

 こんなところが今回の感想ですね(だいぶ私の考えが前面に出てしましました、、)宗教はセンシティブな問題なのでこのような機会に考えてみるのもいいかもしれません。

 ところで「僕のバイブルは〜」という言い回しがありますが、イスラム圏であれば「僕のコーランは〜」或いは、仏教圏であれば「僕の法華経は〜」となるんですかね。

今日もここまで読んでいただきありがとうございました😊最後は一言一人暮らし日記で締めましょう。

 

一言一人暮らし日記:二度寝で諦めても三度寝の正直